今まで観よう観ようと思ってずっと先送りにしていた黒澤明監督の映画『生きる』を観ました。
さすが名作と謳われるだけあって、色々と考えさせられるところがありましたよ。
まだ観ていないという方は、是非一度観てみることをおススメします。
映画『生きる』 ― 死ぬ前に「いい人生だった」と言えるか
ざっくりとストーリーなど
市役所で市民課長を務める主人公が胃癌の診断を受け、余命がわずかだと知るところから物語が始まる。
それまでの30年間は書類の山に目を通し、ハンコを押すだけの”時間つぶし”だけの仕事を続けてきた主人公。
死を目前に人生の目的を見失った彼は欠勤を続け、それまでコツコツと貯めてきた預金をおろして夜の街をさまようようになる。
放蕩を続けても満たされることのない彼は、ある日市役所の部下である女性と街で会う。
彼女は退屈なだけの市役所を辞め、玩具工場に転職しようとしていたのだ。
彼女に生きる意味を教えられた主人公は「まだできることがある」と奮起し、市役所へ復帰。
縄張り争いが横行する市役所の各部署を熱心に説得し、住民から強く要望されていた新公園の造成に尽力する。
5ヵ月後主人公は死ぬ。新公園の完成を見届けたかのように。
自分の仕事は何か?
主人公は30年無欠勤でありながら、結局自分が何をやっているのか分かっていませんでした。
それまで遊びも知らず真面目に務めてきた自分が、死を目前に「何もしていない」ことに気づいたんですね。
自分のやっている仕事は何なのか?それはどんな意味を持つことなのか?
P.F.ドラッカーは著作の中で「何によって憶えられたいか」と言っていましたが、ここが明確でないと働くということが壮大な”時間つぶし”になってしまうかもしれません。
自分の死を想像する
ラストシーンで描かれている主人公の葬儀では、市役所の面々が新公園造成は誰の手柄だったのか議論します。
最終的には一番偉い助役の手柄と言うことで落ち着きそうになるのですが、そこに公園造成を熱望していた市民が焼香に現れ、祭壇の前で号泣します。
それを見て、みんな何となく誰の手柄だったかってことに気づいてしまうんですね。
スティーブン・コヴィー博士の『7つの習慣』では、「自分の葬儀シーンを想像し、どんな弔辞をあげてもらいたいか考える」というワークがあります。
家族・友人・同僚・コミュニティの人たちにとって、自分はどんな存在でありたいのか、そうなるためには何をしなければならないのか、と言うことですね。
普通に健康に生きているとなかなか想像できないかもしれません。
死の宣告をされて初めて大切なものに気づくという人の方が多いでしょう。
いざと言うときに後悔しないためにも、常日頃から自分の死を想像しておくのは無駄ではないはずです。
まとめ
形あるものはいつか壊れる、命あるものはいつか死ぬ。
これは絶対に避けられない原理原則です。
私たちは生まれた瞬間から死に向かって進み続けることしかできません。
そう考えると無駄に過ごしている時間なんてないと思いませんか?
死ぬ間際に「いい人生だった」と言えるよう、毎日を精一杯生きる。
これが私たちに課せられた使命なんだと思います。
コメント